2020.11.09
ニューノーマル時代に学ぶべきCI・戦略経営デザインの本質全3回特別集中講座オンライン(ウェビナー)のお知らせ
2018.01.10
《STRAMD》2018年度第9期生募集記念 公開シンポジウム(無料)のご案内
2017.01.16
《STRAMD》2017年度第8期生募集記念 公開シンポジウム(無料)のご案内
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「知の枠組み(Framework of Intelligence)」の第一回目講義。リベラルアーツにカテゴライズされ、かつ抽象度が高く、とてもアカデミックで難解な授業だった。テーマは、「人間知の条件」。アイデアを生み出すプロセスやコツを「知の枠組み」を理解することを通して探って行こうという趣旨である。アイデアを生み出す知的作法のサイクルを「Feel⇒Think⇒act」と定義すると、今回の講義は「Feel」と「Think」に当たるのかと自分なりに解釈して講義に入って行った。 ■講義前半:「知をめぐる概念の構造」 「知をめぐる概念」とは「理性」「知性・悟性」「感性」に構造化される。先ず、「性」の原義は「心が生まれる」⇒「生まれつきのもの」⇒転じて「物事の本質」を表す。次に「理」とは、「玉の表面の筋目」⇒「筋目が美しいかどうかで価値が決まる」⇒転じて「大事な物事の筋道、法則」。「知」とは、「口から矢のようにものを出して当てる」⇒「言葉を発する(言語化する)」⇒転じて「ずばり言い当てる」。「悟」とは、「行きかい交差して語り合う」⇒「心の中でのおしゃべり」⇒転じて「はっと思いあたること」。「感」とは、「ほこで刺激を与えて口を閉じさせる」⇒転じて「刺激を受けて口を閉じて、心で受け止めること」。 普段何気なく使っている「語」の原義がいかにさまざまな思考の生い立ちから導出されていて、かつそれぞれに深い意味が付与されていることに改めて気づかされる。 先生の講義はさらに発展し、「感性」とは「経験界」とつながっており、自分の中の知識や経験の蓄積から育まれるものである。また、「理性」は言葉で言い表せられない「超越界」とつながっており、「超越界」の具体的事例として、日本人は恐ろしいほど信仰心が厚い民族であり、自身では自覚しないまま深く信じていると説かれる。また、理性の三大関心として、「私は何を知ることができるか」という純粋理性と、「私は何をなすべきか」、「私は何を望んでよいか」という実践理性に分けられる。そして、カントの言葉である「内容のない思惟は空虚、概念のない直観は盲目である」を紹介される。 ここまで来ると、言葉の抽象度が高くかつ難解で、それぞれの概念や関係性を理解・把握することは非常に困難になってくる。そして、頭の片隅が痺れ、もやもや感を抱えたまま休憩をはさんで後半が始まる。 ■講義後半:「創造の階梯」(あらゆる創造は段階的に進む) 創造の段階としては「準備(やみくもに集める)」⇒「苦悩」⇒「あたためる(あきらめる)」⇒「啓示(ひらめく)」のプロセスをたどる。努力の効果は、ある程度プラトー(高原)状態を経て顕現される。 「記号」から「情報」が生まれ、「知識」として体系化される。「号」の原義は、曲げた喉から声を絞り出すことで、もともと大声を出す意味。「記号」とは世界の分類、意味づけについて、私たちが定めしたしるしであり、客体化され制度化される文化資本。「情報」はその「記号」に接した個人であり、内在的、偶然的、主観的、固有的である。そして、「知識」はその行為主体に生じるものであり、身体化される文化資本である。 「記号」の役割とは、対象の代理表象という見方であり、例として、「病は気から。。」と言うが、病は医学が作り出すとも言え、疾病の記号規定が病の意味を生成すると言う考え方。言い換えれば、「○○病」と医者から指摘されて、初めて病気の状態になる。これは、「名詮自性(みょうせんじしょう)」という考え方に結びつく。つまり、名はものの性質を自ずと表し、「名はものの性質を自ずと作り出すことができる」と言える。 ■感想: しかし、かくも普段使っていない脳の部位を刺激された経験はめったにない。いかに自分が普段日常生活で、簡単に解を出せる事象にのみ考えを巡らせているかがよく分かった。あまりにも抽象度が高すぎかつ深遠すぎて、はっきり言ってよく分からなかった。たかが2時間で理解できるほど甘くはなく、モヤモヤを抱えたまま二回目の講義を受講してみるつもりだ。結局、分からず仕舞いでもよしとしよう。実務家として「常に頭の片隅に割り切れないものを内包し続ける」という事は、セレンビティティを誘発するためには、結構大事なことだと思うからだ。
「知の枠組み(Framework of Intelligence)」の第一回目講義。リベラルアーツにカテゴライズされ、かつ抽象度が高く、とてもアカデミックで難解な授業だった。テーマは、「人間知の条件」。アイデアを生み出すプロセスやコツを「知の枠組み」を理解することを通して探って行こうという趣旨である。アイデアを生み出す知的作法のサイクルを「Feel⇒Think⇒act」と定義すると、今回の講義は「Feel」と「Think」に当たるのかと自分なりに解釈して講義に入って行った。
■講義前半:「知をめぐる概念の構造」
「知をめぐる概念」とは「理性」「知性・悟性」「感性」に構造化される。先ず、「性」の原義は「心が生まれる」⇒「生まれつきのもの」⇒転じて「物事の本質」を表す。次に「理」とは、「玉の表面の筋目」⇒「筋目が美しいかどうかで価値が決まる」⇒転じて「大事な物事の筋道、法則」。「知」とは、「口から矢のようにものを出して当てる」⇒「言葉を発する(言語化する)」⇒転じて「ずばり言い当てる」。「悟」とは、「行きかい交差して語り合う」⇒「心の中でのおしゃべり」⇒転じて「はっと思いあたること」。「感」とは、「ほこで刺激を与えて口を閉じさせる」⇒転じて「刺激を受けて口を閉じて、心で受け止めること」。
普段何気なく使っている「語」の原義がいかにさまざまな思考の生い立ちから導出されていて、かつそれぞれに深い意味が付与されていることに改めて気づかされる。
先生の講義はさらに発展し、「感性」とは「経験界」とつながっており、自分の中の知識や経験の蓄積から育まれるものである。また、「理性」は言葉で言い表せられない「超越界」とつながっており、「超越界」の具体的事例として、日本人は恐ろしいほど信仰心が厚い民族であり、自身では自覚しないまま深く信じていると説かれる。また、理性の三大関心として、「私は何を知ることができるか」という純粋理性と、「私は何をなすべきか」、「私は何を望んでよいか」という実践理性に分けられる。そして、カントの言葉である「内容のない思惟は空虚、概念のない直観は盲目である」を紹介される。
ここまで来ると、言葉の抽象度が高くかつ難解で、それぞれの概念や関係性を理解・把握することは非常に困難になってくる。そして、頭の片隅が痺れ、もやもや感を抱えたまま休憩をはさんで後半が始まる。
■講義後半:「創造の階梯」(あらゆる創造は段階的に進む)
創造の段階としては「準備(やみくもに集める)」⇒「苦悩」⇒「あたためる(あきらめる)」⇒「啓示(ひらめく)」のプロセスをたどる。努力の効果は、ある程度プラトー(高原)状態を経て顕現される。
「記号」から「情報」が生まれ、「知識」として体系化される。「号」の原義は、曲げた喉から声を絞り出すことで、もともと大声を出す意味。「記号」とは世界の分類、意味づけについて、私たちが定めしたしるしであり、客体化され制度化される文化資本。「情報」はその「記号」に接した個人であり、内在的、偶然的、主観的、固有的である。そして、「知識」はその行為主体に生じるものであり、身体化される文化資本である。
「記号」の役割とは、対象の代理表象という見方であり、例として、「病は気から。。」と言うが、病は医学が作り出すとも言え、疾病の記号規定が病の意味を生成すると言う考え方。言い換えれば、「○○病」と医者から指摘されて、初めて病気の状態になる。これは、「名詮自性(みょうせんじしょう)」という考え方に結びつく。つまり、名はものの性質を自ずと表し、「名はものの性質を自ずと作り出すことができる」と言える。
■感想:
しかし、かくも普段使っていない脳の部位を刺激された経験はめったにない。いかに自分が普段日常生活で、簡単に解を出せる事象にのみ考えを巡らせているかがよく分かった。あまりにも抽象度が高すぎかつ深遠すぎて、はっきり言ってよく分からなかった。たかが2時間で理解できるほど甘くはなく、モヤモヤを抱えたまま二回目の講義を受講してみるつもりだ。結局、分からず仕舞いでもよしとしよう。実務家として「常に頭の片隅に割り切れないものを内包し続ける」という事は、セレンビティティを誘発するためには、結構大事なことだと思うからだ。