2020.11.09
ニューノーマル時代に学ぶべきCI・戦略経営デザインの本質全3回特別集中講座オンライン(ウェビナー)のお知らせ
2018.01.10
《STRAMD》2018年度第9期生募集記念 公開シンポジウム(無料)のご案内
2017.01.16
《STRAMD》2017年度第8期生募集記念 公開シンポジウム(無料)のご案内
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漢字:東洋の文化的プラットフォーム 金子先生の美的感覚錬成論は、事前課題の共有から始まる。今回のテーマは、「自分の姓名で使われる漢字を、白川静氏の辞書で調べてくる」というもの。その後、白川静氏が起こしたイノベーションや甲骨文・金文の概略、前回講義の質問への回答セッションなどを経て、金子先生コレクションから~遂良の楷書と顔真卿の明朝を、そして中西先生コレクションから甲骨文字をご披露いただくという流れで講義が繰り広げられた。現物を目にした後半に向けて教室のボルテージが上がっていく、そんな流れだった。 ■漢字学におけるイノベーション 漢字学の世界でもイノベーションがあったという。それが字書三部作『字統』『字訓』『字通』で有名な白川静氏による漢字の解釈であった。代表的なのが「口」の解釈。例えば「告」は「牛が口をすりあわせて何事かを訴えようとする形」と説かれてきたが、氏は「神への祈りの文である祝詞を木の枝に括り付けて器にさした形」という解釈を加えた。(←の解釈は私の表現)すなわち、「口」とは「人のくち」ではなく、儀式での祝詞を入れる器「サイ」を表すのではないかということである。「漢字とは概念の映像である」という言葉に集約されるように、甲骨文字を何十年にもわたり研究した結果、当時の宗教的・呪術的な背景や価値体系をその文字体系の中に見出されたのだろう。 ■文字は世相を映す 本講義の講義では、金子先生が中国で手に入れられたという~遂良の楷書と顔真卿の明朝をご披露いただいた。黒地の紙面に、白抜き文字が浮かび上がる拓本である。1つの書体が極められると、また新たな軸線で文字の美しさを追究する動きが生まれていくという時代性がよくわかる。そして、続いて同じく中西先生が中国で手に入れられた「甲骨文字」が描かれた牛骨をご披露いただく。歴史の教科書などで目にする写真とは異なり、やや”のぺっ”とした風貌。金子先生はよく目にする甲骨文字の写真を見て、その”おどろおどろしさ”に違和感を持たれていたとのこと。写真家が呪術的印象を描写しようという意図をもって、ライトアップや構図などを定めたことに依るのかもしれない。私にとっての実物はもっと”しゅっ”として、”のぺっ”としている印象だった。 甲骨文字は当時の王が意思決定にあたり神との相談(占い)をする際に用いられたという。現代日本を生きる我々にとって呪術的と言われると異文化や畏怖すらを感じる響きがあるが、当時はそれが当たり前であり、ある種の日常であったのだろう。少なくとも私には畏敬の念を感じる特別すぎる物体ではなく、もっと自然にそこにあってよいモノのように感じられた。(言い方を変えれば、それだけ自分の美的感度が低いだけなのかもしれないが・・・) 似たようなことがアルファベットでも言える。その起源とされるフェニキア文字において、αは「牛」を、βは「家」を表すという。当時、遊牧民にとっての重要なものが牛であり、家であったという由来を思うと、その日常を垣間見ることができる。 すなわち、文字とは当時の日常やその背景にある価値観を映し出す鏡であると捉えられるということだ。 ■漢字の紐解きからSTRAMDへ 前回、文字(欧文書体)の講義では「自分のスタンダードフォントを作ってください」という言葉で講義が締めくくられた。それは自分なりのフォントを使い込むことで、他のフォントとの違いも明らかになり、良い文字組みができるようになるからだという。そして、今回も「文字を身体に入れる」という言葉が使われた。漢字を紐解くことはその時代の日常、そして人々の価値観を理解することに繋がるということだろうか。講義を終えた今、次のような問いが頭に浮かぶ。 「私たちは今、どのような文字が身体に入っているのだろうか?」 この問いに答えることは、”現代”の日常や価値観を問い直すことになろう。日頃、資料を作成する際にどのフォントを選んでいるのだろうか?そして、それはなぜか?…視認性の高さか?それとも共感性を求めたのか?…デファクト・スタンダードとされるフォントとは?それはなぜか?…どこでどのような媒体を通じて読まれる・見られるのか?…紙面か、ディスプレイ上か?近くで読むのか、遠く見上げられるのか…あるいはどのような語感の言葉を選択しているのか?そして、それはなぜか?… 今、我々はどのような価値が尊重される時代で、何に価値を置いたビジネスをデザインしているのかということ。そして、次の問いに繋がる。 「私たちは今、どのような文字を身体に”入れるべき”だろうか?」 この問いに答えることこそが、未来をデザインする、あるいは社会が欲しているが未だ気づいていない何かをデザインすことであり、STRAMDで追求していることなのではないだろうか。 それにしても「美的」な「感覚」を「錬成」するのは難しい。講義の都度、「美的とは?」「感覚とは?」「錬成とは?」に頭を悩まし、自分なりの解釈、そして日常への翻訳のために汗をかくことになる。願わくば、講義を自分の頭の中で熟成させてからブログに起こしたい…。そして、次回に向けた事前課題も難題。。。
漢字:東洋の文化的プラットフォーム
金子先生の美的感覚錬成論は、事前課題の共有から始まる。今回のテーマは、「自分の姓名で使われる漢字を、白川静氏の辞書で調べてくる」というもの。その後、白川静氏が起こしたイノベーションや甲骨文・金文の概略、前回講義の質問への回答セッションなどを経て、金子先生コレクションから~遂良の楷書と顔真卿の明朝を、そして中西先生コレクションから甲骨文字をご披露いただくという流れで講義が繰り広げられた。現物を目にした後半に向けて教室のボルテージが上がっていく、そんな流れだった。
■漢字学におけるイノベーション
漢字学の世界でもイノベーションがあったという。それが字書三部作『字統』『字訓』『字通』で有名な白川静氏による漢字の解釈であった。代表的なのが「口」の解釈。例えば「告」は「牛が口をすりあわせて何事かを訴えようとする形」と説かれてきたが、氏は「神への祈りの文である祝詞を木の枝に括り付けて器にさした形」という解釈を加えた。(←の解釈は私の表現)すなわち、「口」とは「人のくち」ではなく、儀式での祝詞を入れる器「サイ」を表すのではないかということである。「漢字とは概念の映像である」という言葉に集約されるように、甲骨文字を何十年にもわたり研究した結果、当時の宗教的・呪術的な背景や価値体系をその文字体系の中に見出されたのだろう。
■文字は世相を映す
本講義の講義では、金子先生が中国で手に入れられたという~遂良の楷書と顔真卿の明朝をご披露いただいた。黒地の紙面に、白抜き文字が浮かび上がる拓本である。1つの書体が極められると、また新たな軸線で文字の美しさを追究する動きが生まれていくという時代性がよくわかる。そして、続いて同じく中西先生が中国で手に入れられた「甲骨文字」が描かれた牛骨をご披露いただく。歴史の教科書などで目にする写真とは異なり、やや”のぺっ”とした風貌。金子先生はよく目にする甲骨文字の写真を見て、その”おどろおどろしさ”に違和感を持たれていたとのこと。写真家が呪術的印象を描写しようという意図をもって、ライトアップや構図などを定めたことに依るのかもしれない。私にとっての実物はもっと”しゅっ”として、”のぺっ”としている印象だった。
甲骨文字は当時の王が意思決定にあたり神との相談(占い)をする際に用いられたという。現代日本を生きる我々にとって呪術的と言われると異文化や畏怖すらを感じる響きがあるが、当時はそれが当たり前であり、ある種の日常であったのだろう。少なくとも私には畏敬の念を感じる特別すぎる物体ではなく、もっと自然にそこにあってよいモノのように感じられた。(言い方を変えれば、それだけ自分の美的感度が低いだけなのかもしれないが・・・)
似たようなことがアルファベットでも言える。その起源とされるフェニキア文字において、αは「牛」を、βは「家」を表すという。当時、遊牧民にとっての重要なものが牛であり、家であったという由来を思うと、その日常を垣間見ることができる。
すなわち、文字とは当時の日常やその背景にある価値観を映し出す鏡であると捉えられるということだ。
■漢字の紐解きからSTRAMDへ
前回、文字(欧文書体)の講義では「自分のスタンダードフォントを作ってください」という言葉で講義が締めくくられた。それは自分なりのフォントを使い込むことで、他のフォントとの違いも明らかになり、良い文字組みができるようになるからだという。そして、今回も「文字を身体に入れる」という言葉が使われた。漢字を紐解くことはその時代の日常、そして人々の価値観を理解することに繋がるということだろうか。講義を終えた今、次のような問いが頭に浮かぶ。
「私たちは今、どのような文字が身体に入っているのだろうか?」
この問いに答えることは、”現代”の日常や価値観を問い直すことになろう。日頃、資料を作成する際にどのフォントを選んでいるのだろうか?そして、それはなぜか?…視認性の高さか?それとも共感性を求めたのか?…デファクト・スタンダードとされるフォントとは?それはなぜか?…どこでどのような媒体を通じて読まれる・見られるのか?…紙面か、ディスプレイ上か?近くで読むのか、遠く見上げられるのか…あるいはどのような語感の言葉を選択しているのか?そして、それはなぜか?…
今、我々はどのような価値が尊重される時代で、何に価値を置いたビジネスをデザインしているのかということ。そして、次の問いに繋がる。
「私たちは今、どのような文字を身体に”入れるべき”だろうか?」
この問いに答えることこそが、未来をデザインする、あるいは社会が欲しているが未だ気づいていない何かをデザインすことであり、STRAMDで追求していることなのではないだろうか。
それにしても「美的」な「感覚」を「錬成」するのは難しい。講義の都度、「美的とは?」「感覚とは?」「錬成とは?」に頭を悩まし、自分なりの解釈、そして日常への翻訳のために汗をかくことになる。願わくば、講義を自分の頭の中で熟成させてからブログに起こしたい…。そして、次回に向けた事前課題も難題。。。